巡難一蹴     後編




時間は少し戻る。

すっかり住み慣れた総司との小さな家でささやかな昼餉の後、庭先の洗濯物が
風に翻るのをセイはぼんやりと見ていた。

大きくなった腹部に手を添えるのは無意識の行為であるが、そっとそこを撫でながら
空いている手で頬を抓る。
日々、ここでこうして暮らしているが、何かの拍子にこの現実が信じられず
自分の都合の良い夢の中にいるような気がしてしまうのだ。

風のような武士に憧れ、気づけば離れられない程に想いを寄せていた。
男女としての情を交わす事は求めず、ただ共に戦う同志として傍にある事を望み、
白刃舞う中で肩を並べて走り続けるはずだったのに。

いつの間にか話は思わぬ方向に転がり出し、気づけば自分は総司の妻として
家を守り、今や腹の中に総司の子を宿している。

「不思議だなぁ・・・」

セイが小さな呟きを落とした時、突然家の前から騒ぎの物音が響いてきた。



「うっわぁぁぁぁぁん!」

「うるせぇ、このガキっ! 静かにしやがれっ!」

危急の時の為と玄関脇の小部屋入り口に立てかけてあった、使い慣れた脇差を掴んで
外に飛び出したセイが見たものは、子供の腕を掴み上げ怒声を浴びせる浪士らしい男と
その背後にいる仲間らしき二人の男。

知らずセイは小さく舌打ちしていた。
今日に限って家には隊士の誰も来ていない。
何があったのかは知らないが、この状況で何事も無く場が納まるとも思えない。
今の自分に何ができるのか正直自信があるわけでは無かったが、
セイは意を決して声をかけた。


「その子が何かしましたか?」

子供を怒鳴っていた男が家から出てきたセイを認めると厭らしい笑みを浮かべる。

「ほほう、あんたがこの餓鬼のおっ母さんかい? 何、武士に対する口の利き方を
 知らないようだから、ちょっと教えてやろうと思っただけだ」

「私はその子の母ではありませんが、顔見知りです。何分子供の事、どうぞ大目に
 見てやってはいただけませんか?」

「いいぜ。あんたがコイツの変わりに侘びを入れてくれるっていうならな。
 天下の沖田の女房だ。さぞやこっちの度肝を抜く侘び様を見せてくれるだろうよ」

男の言葉に背後のやつらが声を上げて笑った。
ここに至ってセイは覚る。
この男達の目的が自分である事を。
新選組の沖田に対する敵意を自分を斬る事で晴らす気なのか、もしくは自分を囮に
総司を呼び出すつもりなのか。
どちらにしても楽に相手の思い通りになる事などできない。

先程騒ぎの様子を遠巻きに見ていた近所のおかみさんが、屯所の方向に
走り去る姿が見えた。
恐らく知らせに行ってくれたのだろう。
それにこの時刻なら午後の巡察に向かう一団がこの近くを通るはずだ。
運が良ければ騒ぎの気配に気づいてこちらに来てくれる可能性もある。
巡察路に近い家を見つけた土方の深慮が、こんな時に役に立つかもしれない。

問題は・・・この自由にならぬ身で、どれだけの時間を稼げるか、だ。
セイは脇差の鞘を払った。


「こりゃ驚いたぞ。この奥方は俺達に剣で向かうつもりらしい」

「おいおい、慣れないもんを振り回したって怪我するだけだぜ」

「そうそう。そんな腹をしてて、何が出来るっていうんだ」

げたげたと笑いながら近づいてくる男達を見据えてセイの頭はめまぐるしく動く。
この男達は自分が剣を使えるという事を知らない。
だったら子供を人質の如く捕まえている男は初太刀で倒す事が可能だ。
では、次の男はどうする。
その次は。
一人倒す毎に相手は本気になるだろう。
纏う気からは大した使い手とは見えないが、こちらに不利が多すぎる。


考える間もなく目の前に来た男の左腕、子供を掴んでいた方の腕を、
軽く腰を落とした状態から伸び上がる反動を利用して斬りつけた。
隊士時代に総司がセイの為に選び、今もセイが手入れを怠らない脇差の切れ味は鋭く、
パシリと軽い音と共に男の腕が地に転がる。

響く絶叫の合間に子供の手を引くと門の中に走りこんだ。
口早に子供へ裏から逃げる事を指示するとセイは男達の方向に向き直る。

狭い入り口から残りの二人が同時に入って来る事は叶わない。
まして脇差で骨まで切断する事は簡単ではなく、セイの剣の技量も
よほどの馬鹿でない限り理解した事だろう。
そうであれば無思慮に飛び込んでくる可能性は低い。
僅かでも躊躇して時間をかけてくれれば、その間に屯所からの応援が
来てくれるかもしれない。

そんなセイの祈る思いを裏切るように、目を血走らせた男が白刃を手に
狭い入り口に姿を現した。


京の町家は紅殻格子が多いが、この家は黒く塗られている。
板塀の一部に片開きの黒い格子戸があり、そこを入れば家の玄関まで
三間ほどの前庭がある。
町中にしては広い裏庭といい、家の周囲にこのような空間を配しているのは
恐らく今のような事態を想定して、いざとなれば斬り合いもできるように
という事だったのか。

「いざって時は自分で戦えって事ですか、副長」

思わず口を出た自分の言葉にセイは苦笑した。
いくら何でも身重の身で自分がこんな状況に陥るなどとは、土方とて想定など
していなかった事だろう。
危険が迫ったら必ず逃げるようにと口調は穏やかだったが、請うような眼差しで
自分を見つめていた総司の顔が脳裏に浮かぶ。
愛しい愛しい男がどれほど自分の身を案じているかは理解している。
それでも。

「頑張りますよ。清三郎はっ!」

総司の枷とならぬために、そして何より腹のこの子を守るために。
前庭に入った男の後ろから、もう一人の男が姿を現す。
後ろの男を完全に中に入れない為にセイは刃を構え、前の男を押し戻すように
足を踏み出した。





「セイッ!」

揃いの黒羽織を着た男達を押しのけて総司がその場に足を踏み入れた時には、
予想通りに全てが終わっていた。

総司の姿を見つけてニコリと微笑むセイの乱れた髪と若苗色の着物に散った
朱の色に総司が慌てて駆け寄る。

「怪我、怪我はっ?」

「え〜っと、ちょっとかすり傷です。大丈夫です、総司様」

パタパタと手を振るセイの隣に立っていた原田が豪快に笑う。

「だよな〜。こいつ応援が来る前に二人も自分で片付けてやがったらしいぜ」

「らしい、って原田さんが助けてくれたんじゃ?」

怪訝な顔で問いかける総司に原田は苦笑する。

「いや、神谷を助けたのはアイツだ」

視線の先には子供に袖を握られたまま、配下に捕縛した男達の措置を指示する
斎藤の姿があった。

「いやぁ、笑いましたで」

原田と共にその場にいた山崎がくすくすと笑う。

「たまたま見かけたんやけど、あの坊が巡察中の斎藤センセに体当たりしてなぁ。
 わんわん泣きながら『兄上ぇ、おセイはんを助けたってぇ、兄上ぇ』って、
 そらもうえらい勢いで」

「数人の配下を連れて斎藤が駆けつけた時には、神谷が最後の一人と
 斬り合ってたって話だ」

「女子供を狙うような腐った輩ですわ。あっという間に斎藤センセに斬り倒されて終いや」

「それからずっと、あの小僧は斎藤の傍を離れないらしいぜ。
 よっぽど気に入られたみてぇだな」

呵呵と原田が笑う。


「それで、斎藤が来るまでに二人も倒してたっていうのか、手前は?」

それまで黙したまま縛られた男達に視線をやっていた土方が、セイに視線を移す。

「いいえっ、兄上達が来たので隙が出来て二人目をどうにか倒せたんですよ。
 こんな身では斬られないよう時間稼ぎをするのが精一杯で」

慌てて首を振りながらセイが必死に言い訳をする。

「それでも、だ。だんびら振り回して二人も倒したってんだな?」

抑えた土方の声に周囲の喧騒が静まり、斎藤もこちらに歩み寄ってきた。

「ええ、まぁ」

「その腹でか?」

「えへへ・・・」


「「「えへへ、じゃねえっ(ありませんっ)(ないだろうっ)!!」」」

土方、総司、斎藤の怒声が重なる。
ひゃあ、と首を竦めたセイが小さな声でブツブツと呟く。

「そんな大きな声を出したら、お腹のこの子が驚くじゃないですか・・・」

「いや、母御が白刃振り回して男を斬り倒す以上に驚く事は無ぇと思うぜ」

ぼそりと落とされた永倉の言葉に山崎と原田が噴き出した。



「何にしても、やっぱりこのままでは色々と危険だという事だ」

斎藤の言葉に永倉達が頷く。

「だから私が早々に屯所へと」

「嫌ですってば、そんなの」

「駄目だって言ってるだろうが」

総司の言葉をセイと土方が異口同音に否定する。

「じゃあ土方さんはセイがまた危険な目に合っても構わないって言うんですか?」

「そうは言ってねぇだろう」

「さっきはセイを心配して、あんなに必死に走ってた癖に」

じとりと恨めしそうな総司の視線に微かに頬を染め土方が怒鳴り返す。

「一番隊組長の女房が賊に害されたりしたら、新選組の恥だろうがっ!
 だからだっ!」

それに神谷に何かあったら馬鹿亭主が使いモンにならなくなるだろうし、と
ブツブツ続ける。
そんな言い合いを聞きながらも、視線だけで合図を交わしていた男達の中から
斎藤が歩み出て口を開いた。


「副長が反対なのはわかってますからな。私の知り人に頼んでみようかと
 思っているのですが」

「誰だ?」

「今、一橋公に乞われて江戸町火消し、新門の頭が在京している事はご存知でしょう。
 ひょんな事から知り合う機会がありまして。そちらに預かってもらう事も考えていたのです」

斎藤の提案に総司が眉根を寄せる。

「さる公家の邸を借り上げているとかで敷地も広いものですし、何よりあちらには屈強な
 火消しの若衆が常時居る。今回のような馬鹿が入り込む隙間などありますまい」

「だからですね、私は大丈夫だと」

「それって浮、いえ、一橋公にもお願いする事になりませんか?」

セイの言葉を遮って総司が尋ねた。

「新門の頭から話は聞かれるかもしれないが、我々から直接お願いする必要はないだろう」

「ちょっと待てよ。でもそれって下手すりゃ神谷の子が一橋公の隠し子だ、
 なんて噂が立つんじゃねぇか?」

「ああ、在り得るぜ。総司と神谷の祝言だって、一橋公は絡んでるんだ。
 自分の女を家臣に下げ渡す、なんざ今も昔もある事だし」

「冗談じゃないぜ、八っつぁん。神谷は新選組の末っ子なんだ。
 そんな妙な噂なんぞ立てられてたまるかいっ!」

原田の言葉に永倉と斎藤が小さく口元を緩める。

「だったら、どうすると言うんだ、原田さん」

「総司不在の間は俺達が数人ずつでここに常駐する!」

原田の言葉にセイの危急を知って駆けつけてきた隊士達が我先にと声を上げる。

「私達もお手伝いしますっ、原田先生っ!」

「いや、本当に大丈夫ですから」

慌ててセイが口を挟むが誰も耳を貸さない。

「左之にしちゃ良い案じゃねぇか。非番の連中が四.五人ずつの組を作って、
 あぁ、あの玄関脇の小部屋でいいぜ。昼夜警護をするって事にすりゃいい」

勝手に決まっていく話に土方がようやく追いついた。

「ちょっと待て。勝手に決めるんじゃねぇ」

「いいじゃねぇか。非番の日に誰が何をしようと勝手だろう?」

「だからな、新八。そんなに何人も抜けたら屯所が手薄になるだろうが」

「何を言ってやがる。六人や七人居なくなった所で、どれほどの問題があるんだよ?
 屯所にゃ鬼の土方が健在だ。何の問題もあるめぇ」

そんなに家に来られたらセイの負担になると、口を挟もうとした総司の背中を
斎藤が抓り上げ黙っていろと無言の重圧をかける。
そして代わりのように口を開いた。

「そうですな。非番の人間は常でも居ないも同じ。例え八人や九人が屯所を空けた所で
 問題などありますまい」

永倉と斎藤の話を聞いていた山崎が何かを感じ取ったように会話に加わる。

「せや。監察からも参加させたってもらおか。十人や二十人ぐらい、
 沖田センセのお宅やったら楽に置いて貰えるやろうし」

「いっそ裏庭に新選組分所として小屋でも作るか?」

原田の発言に永倉が身を乗り出す。

「おお、だったら非番の人間が全部こっちに来ちまうんじゃねぇか?」

「庭で護衛するなら神谷にも負担にならないだろうしな」

斎藤までが頷く様子に、とうとう土方が我を折った。


「わかったよ、ちくしょうっ! 神谷を屯所で引き取りゃいいんだろうっ!!」


わあっ、と上がった歓声の中。
「え? ええっ? ちょっと待って。だからっ」 と必死なセイの言葉は黙殺され、
「土方さん、ありがとう。大大大好きですよぅっ!!」 という総司の叫びだけが響き渡った。




このすぐ後、さすがに限度を超えた大暴れの影響から腹痛を訴えたセイは、
大慌てで飛んできた松本良順に大目玉を落とされた。
幸い腹の子に問題は無く、胸を撫で下ろした周囲の男達によって抵抗もむなしく
屯所に移され、そのまま無事に身二つとなるまでそこで過ごす事となる。

さすがに男所帯の屯所の建物に若夫婦を置くのはお互いに落ち着かぬだろうと、
土方の命令の元、すさまじい早さで敷地の外れに作られた離れでセイは穏やかに過ごした。

かに思えるが、大量の自称兄達と夫の身内同様の人間達は
セイを静かに過ごさせてなどくれはしない。


新選組西本願寺屯所は日々賑やかなのだ。
 


                                          前編へ